公益財団法人トヨタ財団

助成対象者からの寄稿

コロナ禍のもとで実施したプロジェクトゆえに得られた新たな知見

クーデター以降閉鎖された国境沿いにあるタイ・メソートの市場
クーデター以降閉鎖された国境沿いにあるタイ・メソートの市場

著者◉ 白井裕子(京都精華大学)

[助成プログラム]
2020年度 国際助成プログラム
[助成題目]
COVID-19パンデミック禍でのアジア東西経済回廊の国境越境地域におけるコミュニティの持続的発展とそのマネジメント このリンクは別ウィンドウで開きます
[代表者]
白井裕子(京都精華大学)

コロナ禍のもとで実施したプロジェクトゆえに得られた新たな知見

東南アジア大陸部における経済回廊プロジェクト

大メコン圏6カ国における3本の経済回廊 出所: mundi July 2019, pp.23.
大メコン圏6か国における3本の経済回廊(出所: mundi July 2019, pp.23.)

1992年、大メコン圏6か国(6Greater Mekong Subregional Countries (カンボジア、タイ、ミャンマー、ラオスと中国・雲南省からなる6か国): 6 GMS)の経済協力プログラムがアジア開発銀行 (ADB)の主導の下で実施された。その時、各国を繋ぐインフラを整備し、交通、エネルギー、観光や農業など多面的に地域の経済活動を支援する経済回廊(Economic Corridor)構想が打ち出され、3本の経済回廊プロジェクトが具体化された:南北経済回廊、東西経済回廊、南経済回廊である。

2015年から2017年にかけて、インドシナ半島を東西に貫く「東西経済回廊」において、特にベトナムとラオスの国境地域を対象にした研究プロジェクトに参加した経験があった。その時、近い将来、東西経済回廊にある他の国境地域を対象にしたプロジェクトを立ち上げて、経済回廊を総合的に理解したいと考えた。そして、ラオス・サヴァンナケート/タイ・ムクダハーンとの国境地域と、道路整備がなかなか進まないタイ・メソート/ミャンマー・ミャワディとの国境周辺の地域コミュニティを対象として、地域住民の自主性とコミュニティ・マネジメント能力の向上支援プログラムを立ち上げた。その結果、2020年度トヨタ財団国際助成プログラムに採択され、3か国をまたいだ国境地域プロジェクトが始まることになった。

コロナの蔓延と同時にプロジェクトが始まる

オンラインによるプログラム活動の実践を経験した仲間たち
オンラインによるプロジェクト活動の実践を経験した仲間たち

ところが、プロジェクト活動がスタートして間もない2020年10月以降、コロナが勢いを増しつつあった。各国の国境には厳しい規制が設けられ、人や物もこれまでのように往来することが出来なくなった。当時、各国のプロジェクト・メンバーとは月に一度のオンライン会議でコミュニケーションを取りながら、プロジェクト活動のモチベーションがなんとか維持できるように努めた。各国境の状況やコロナ感染予防対策について情報交換をしながら、コロナ終息後に国境地域コミュニティの歴史や文化についてすぐに現場での聴き取りが始められるように準備を進めた。この期間のオンラインによる情報交換は実情(コロナ禍)の相互理解と共にメンバー間の相互理解にも有益であったように思われる。

オンライン会議では、次のような現状が身近な話題として話し合われた。たとえば、ラオスからタイのバンコクなど大都市に出稼ぎにいった労働者は、外国人という理由でワクチンを打ってもらえず、職を失い、やむを得ずラオスに帰国しても働き口がなく、その結果、村では多くの失業者があふれた。日雇い労働者は、その受け入れ国においても出自国においても、どの国の国境地域をみても失業状態に変わりはなかった。

また、タイとミャンマーの国境では、ミャンマーからタイへの輸送車は、その通過(荷物)量に制限がかかった。同時にミャンマー人のドライバーにはタイ国内でトラックの運転が禁止された。そのため国境を中心にミャンマーからタイへの荷物の輸送が滞った。しかし、タイからミャンマーに物を輸送する際、タイ人のドライバーは貨物自動車を運転して国境を通過することが許されていた。このようにプロジェクト対象の3か国において、国によるコロナの対応策に相違があることが明らかになると同時に、コロナ対策で優位に立つ国と劣位に立たざるを得ない国とが明確になり、それが地域住民の生活に目に見える形で影響を与えていた。

また、2021年2月にミャンマーで軍事クーデターが勃発した。クーデター以前は、ミャンマーとタイの両国に家族や親せきを持つ人たちの往来や物の売買を通じた交流が盛んにおこなわれていたが、クーデター以降それらの交流は断たれ、特に国境付近の小さな商店の収入が激減した。ミャンマーからタイへの輸出量も減少し、ミャンマーでは物価が高騰した。更にプロジェクト対象地域であるミャワディとメソートの国境で銃撃戦があり、ミャンマーから多くの人たちがタイへ逃れて来た。

クーデター前とクーデター以降
左:コロナが蔓延する以前は、ミャンマーから仕入れられた品物がたくさん並んでいた(国境沿いにあるタイ・メソートの市場の様子)
右:クーデター以降、メソートとミャワディの間に置かれた鉄のワイヤーのフェンス(向かって左側がタイ・メソートの村落。フェンスの右側にはMoe川を挟んでミャワディの村落がある)

タイのプロジェクト代表者からは、メソート周辺は大変危険な状況にあるため、プロジェクト活動は中断するべきであるという意見もあがった。また、クーデターが始まった当初、ミャンマーのプロジェクト・メンバーとはメールや電話で連絡を取ることができていたが、次第に電話が途中で突然切れたり、メールの返信が来なくなるなど、徐々に連絡を取ることが難しくなっていった。他国とのやり取りが軍隊に監視されていることは国際報道で知っていたので、最終的にプロジェクト・メンバーの安全を考慮して、ミャンマーでの活動を全て中止することを、タイとラオスのプロジェクト・メンバーたちと一緒に決定した。こうして現地での活動実施は、ますます目途が立たなくなっていった。

プロジェクト実践からの学び

2021年3月以降、タイ・ムクダハンの国境地域で少しずつ住民への聴き取りを始めた
2021年3月以降、タイ・ムクダハンの国境地域で少しずつ住民への聴き取りを始めた

これまでフィールド・ワーカーとして住民参加型アプローチの実践やCSR (企業の社会的責任) プロジェクトの参加経験があったので、地域の人たちに考えてもらったり、地域の人たちと一緒に考える活動のスタイルには自信があった。トヨタ財団国際助成プログラム・オフィサーの方からは、3か国の国境をまたいだ地域の協働・共創プロジェクトの実施が本当に可能なのかという質問を受けたが、これまでやってきた事をベースに当該プロジェクトも実施出来ると自負していた。

しかし、パンデミックは悪化の一途をたどり、軍事クーデターも相まって、国をまたいだ往来が出来る状況ではなくなった。活動を進めるにはオンラインしか選択肢がなく、このようなやり方を続けて果たしてどこまでプロジェクトの成果をあげる事が出来るのか途方に暮れた。プロジェクト・メンバーとは「現場での活動開始は全く見通しが立たない」という諦めた雰囲気でのやり取りが続いた。しかしそれでも、オンライン会議だけは月に一度欠かさずおこなった。必要に応じて会議の頻度を増やして、実施できる活動と実施できない活動を見極めていった。

助成プログラムが有する柔軟性も功を奏し、コロナ禍においてもなんとかプロジェクト活動の軌道を修正することが出来た。そして、プロジェクト対象国の中でコロナの対応が最も進んでいたタイ国内で、特にタイ/ラオスの国境地域から少しずつ活動を開始することになった。しかし、活動が進んでいく中で、メンバーたちと理解の相違があることが分かった。たとえば、計画にない活動まで実施してしまっていたり、あるいは計画していた活動を実施する資金が足りなくなってしまうなど、予想しなかった問題が起きた。また、軍事クーデターで活動が制限されたタイ側の国境地域では、他の国境地域と活動の足並みを揃えることが難しく、活動開始当初はこの地域の活動がひとり歩きをしていた。

そこで、タイのプロジェクト代表者とその他のメンバーに呼びかけ、コロナが落ち着いたタイミングを見計らい、ワークショップを開催することにした。そして、各国境地域で活動するメンバーが一か所に集結し、タイのプロジェクト代表者が中心となって、お互いの活動内容の詳細を一つずつ丁寧に確認することにした。そうすることで何とか、各国境地域の活動目的や活動内容について相互の理解を得ることが出来た。

プログラム開始以降、1年8カ月後に開いたワークショップで初めて顔を合わせて情報共有するプログラム・メンバーたち。(2022年4月18日)
プロジェクト開始以降、1年8か月後に開いたワークショップで初めて顔を合わせて情報共有するプロジェクト・メンバーたち(2022年4月18日)

上記のようにして次々に難題が降りかかってきたが、各国のプロジェクト・メンバーとの厚い信頼関係のおかげで、現地での活動について、全てを現地協力者たちに委ねる決心をした。それによって、プロジェクト本来の地域住民同士による「学び合い」のプロジェクトが実現できた。もちろん、トヨタ財団国際助成プログラム・オフィサーの方たちの辛抱強くあたたかいサポートなくして、当該プロジェクトを完了させることは出来なかった。この場を借りて、心から感謝の意を表したい。

もし、コロナのパンデミックが起きていなかったら、このプロジェクトはどうなっていただろうか。おそらく、プロジェクト代表者として頻繁に現地を訪問し、たくさん手出しや口出しをしていたに違いない。こうして今、プロジェクトを振り返って思うのは、コロナ禍において実施したプロジェクトゆえの獲得したものの大きさである。それは、全ての活動を現地の人に委ねた体験であろう。当該プロジェクトを通して、一研究者としても大きく成長をさせていただいた。

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