情報掲載日:2025年5月23日
トヨタ財団50周年記念事業特別インタビュー
チリ取材記

執筆 ◉ 加賀道(トヨタ財団リサーチフェロー)
トヨタ財団50周年記念事業の一環として行った助成対象者への特別インタビューに際して、トヨタ財団加賀と新出がチリを訪れました。本稿ではインタビューに収めきれなかった現地での取材活動の様子をご紹介します。本編となる2018年度 研究助成プログラム助成対象者の渡辺知花さんへのインタビューとあわせてご覧ください。
いざチリへ!

チリへ取材に訪れたのは1月の半ば。宮城県の山間に暮らす私は、その日3度目の雪かきを済ませ羽田空港へ向かいました。
同僚の新出洋子さんと共に飛行機を乗り継ぎ約25時間! パンパンにむくんだ足でチリの首都サンティアゴに降り立ちました。刺すような強い日差しに驚いたのもつかの間。空気はさらりと乾いていて、日陰に入ると涼しいほどです。日本のじっとりした暑さとは全く違う気持ちのいい「夏」に出迎えてもらえました。
チリでまず驚いたことは、夜になってもなかなか暗くならないことです。「夜は出歩かないこと」とガイドブックで読んでいたものの、20時を過ぎてもまるで15時頃のような明るさで、店も賑わっています。日本との時差12時間、時差ボケも抱えている私は、何時に夕食を食べ、何時に寝ればいいのか、滞在中ずっとわからずに過ごすこととなりました。
翌日、サンティアゴからさらに飛行機で500kmほど南西に移動。太平洋に面したコンセプシオン県に到着しました。南北に細長いチリは、訪れる場所ごとに気候も植生も大きく異なり、日本では見たこともないようなさまざまな植物を見ることが楽しみのひとつでした。

そういえば、首都サンティアゴでは乾燥した赤茶けた山に木がちらほらと生え、サボテンも多く見かけましたが、ここコンセプシオン県は赤道から離れたためか、長袖を羽織るくらい肌寒い日もあり、海からの水分を含んだ空気で緑が多く茂っていました。
コンセプシオン県タルカワノ地域
コンセプシオン県タルカワノ地域は、今回取材に訪れたプロジェクトの中心地です。チリは日本同様に地震大国で、1960年には観測史上最大規模(マグニチュード9.5)のチリ地震を経験しています。その際の津波は約17,000キロも離れた日本にも到達し、多くの被害者を出しています。今回の取材対象となったプロジェクトでは、日本でおこなわれてきた防災の取り組みが国際協力を通じチリにどのように伝えられ、現地流に「翻訳」されていくのかを記録していくというものでした。
当プロジェクトの現地側のパートナーであるボリス・サエズさんは、タルカワノ行政区の総合リスク管理部長として防災を担当しており、災害の多いタルカワノの地域住民にいかに防災意識を持ってもらえるかについて、日本の防災の取り組みを参考にしつつ、チリに合った形を模索しながら活動を行っています。プロジェクト代表者の渡辺知花さんは人類学者であり、その様子を見守るようにこの取り組みに関わっています。

渡辺さんとボリスさんのインタビューを終えた後(インタビュー記事はこちら)、彼らに案内され、トゥンベスという港町のレストランへ向かいました。見渡す海いっぱいに大小さまざまな色とりどりの船が停泊する港町はまるで絵画のような美しさです。湾に沿うようにレストランがずらりと立ち並び、近郊の観光客が車で押し寄せる人気観光地です。

私たちが向かったレストランには、別の事業で南三陸に行き、地元の女性たちと交流した様子がドキュメンタリー映画「ツナミ・レディーズ」になったというレストラン経営者のアナマリアさんとセルビアさんが待っていてくれました。海産物をふんだんに使った料理をいただきながら、被災後2年かけてレストランを再建したことなどを伺いました。私もたまたま一か月前に南三陸を訪れていたことを伝えると、共通の知り合いがいることが分かりびっくり仰天! なんて世界は狭いのでしょう! 目の前に広がる海を眺めながら、チリと日本はこんなにも遠いのに、この海が二つの国を繋げているのだということを改めて感じました。




タルカワノでとても印象的だったのは、震災や津波の跡がほとんど残っていないことでした。この地域は1960年と2010年に大きな地震と津波被害を受けていますが、日本でよく見かける「津波到達地点」の表示や被災した建物の保存、防波堤などは見られず、この美しい港が津波被害を受けたことは、教えてもらわない限り気がつきません。
このことをボリスさんに尋ねると、地域の人たちは日常を取り戻したいという気持ちが強く、震災の経験は語りたがらない人が多いとのことでした。これは、ボリスさんの勤めるタルカワノ行政区役所付近の海辺でも同様で、約15年前の震災の名残を目にすることはほとんどありませんでした。唯一私たちが見つけたのは、ボリスさんが働きかけて設置したという説明看板と津波が来た場合にはこちらの方向に逃げて、という案内プレートでした。被災地をどのように再建するのかは、国や地域によっても異なるのだということを強く感じました。

チリの人々の日常生活
取材2日目には、二度の大地震経験者であり、助成期間中に実施された高齢者インタビューを受けた2名のお宅を訪問させていただきました。初めてチリを訪れた私たちにとっては、このお二人のご自宅を訪問し、チリの人々の日常生活に触れられたことがとても印象的でした。
当初、被災時に役立ったことを聞き取り、防災に活かすことを目的に高齢者へのインタビューを実施したそうですが、それに対する答えはなかなか得られず、ボリスさんははじめ、このインタビューは失敗なのではと感じたそうです。何人かにインタビューを続けるうち、震災だけではなく彼らの人生での辛い出来事は全てつながっていて切り離せないということに気が付き、それをまとめて聞くことに価値があると気が付いたそうです。実際、お話しを伺ってみると、人生経験の長いお二人に起こった出来事は波乱万丈で、その中に占める震災の記憶は、ほんの一部でしかないのだということがよくわかりました。

ボリスさん曰く、インタビューに応じてくれた人たちは独居老人が多く、当時のインタビュー中、自分は孤独だと口にする人が多かったそうです。しかし、インタビューや地域の子どもたちとの交流を通じ、自己肯定感が高まり孤独感が減ったように感じるとのことでした。今回の訪問時には、それぞれの娘さんが駆けつけて同席してくださっており、家族との関係性も密になっている様子でした。この話を聞き、防災の一つの重要な要素は、人とのつながりを日常生活のなかに作っておくことなのだと気づかされました。

●ローザさん(74歳・女性・一人暮らし)。
一番下の娘さんが来てくれていた。
7人の子どもを授かり、そのうちの一人の息子さん(19歳)を交通事故で無くしている。夫の暴力のため結婚20年で離婚、その後教師となり生活を支えるなど、苦労が多い人生。あきらめずにやればできる、と力強く話してくれた。
助成プロジェクトで実施されたインタビューや子どもたちとの交流は、自分が特別な人間になった感じがし、人に認められている感覚を得て幸せな気持ちになったとのこと。

●ウリシスさん(84歳・男性・1人暮らし)。
幼少期に両親を失い、また、20年前には妻を亡くしている。このプロジェクトに参加し、子どもたちと交流できたこと、子どもたちからいろいろなことをインタビューされたことがとても楽しく、刺激を受けた経験だったとのこと。
薬局での仕事を抜け出して同席してくださった娘さんは、「お父さんは自分の宝物。その父が良い経験が出来て良かった」と語っていた。



そうそう、最後にチリの挨拶を紹介して取材記を終えたいと思います。
出会った人とお互いに軽く抱き合い、頬と頬をくっつけながら口で「チュッ」と音を立てるというものです。私たちもそれに倣い、行く先々で挨拶をしました。
また、チリの皆さんは名前を尋ねてくれ、すぐに名前で呼んでくれます。どうやら、私たちの名前はとても覚えやすかったようです。まずは世界のヨーコ・オノと同じ名前の「ヨーコ」。私の名前「ミチ」に至っては、チリで猫を呼ぶときの掛け声が「ミーチ、ミチ、ミチ」なんだそうです!
お互いの肌に触れて挨拶し、名前を呼び合い、別れ際には大きな声で「チャオ!」。それだけで、初対面でもすぐに距離が縮まり、仲良くなれるような気がしたチリ滞在でした。