※本ページの内容は広報誌『JOINT』に載せきれなかった情報を追加した拡大版です。
食卓の脱植民地化
大石 私は生活の中で、自分の家の食卓で搾取をなくすことをとくに重視しています。広義のヴィーガンには含まれるかもしれませんが、厳密な意味でのヴィーガンではないので、最近は「食卓の脱植民地化」と言っています。たとえばイスラエルの占領下に置かれているパレスチナの人たちが生産したオリーブオイルを使うとか、イスラエル産のレモンを使用した調味料を購入しないようにするということをしています。ヴィーガンと言ってしまうと、どうしても動物性のものを使用しない、食べないということに重点が置かれる傾向があるように思います。私の場合はあらゆる人びとや動植物の「搾取」そのものに注目して、可能な限り自宅の食卓における搾取への加担を減らすことを試みています。
祖母が東北の鶴岡出身なんですけれども、祖母が作ってくれる料理は独特の匂いがするんです。また、なますの中に干し柿が入っていたりして、私が地元の静岡や東京で暮らすなかで普段から食べてきた料理とはちょっと違う。そんな祖母の料理がすごく好きなのに、私はその料理を受け継いでいない。それって何なんだろうと考えてみると、それは食卓自体が植民地化されているからなのではないかと思いました。現代の私たちの食卓にのぼる多くの料理やその味は、私たちが受け継いできたものではなく、資本主義とともにやってきた大量生産される調味料や食品によって植え付けられた植民地主義の料理や味なのではないかと思ったわけです。そこで最近は「食卓の脱植民地化」を実践しています。
竹下 オリーブオイルは、手摘みじゃなくて機械を使って取る方法だと鳥たちが犠牲にされることがあるそうなので、ヴィーガンは避ける傾向があります。私も、できるだけ手摘みのものであったり、脱搾取を気にかけている製品を買いたいと思っています。他にも、レモンはイスラエル産のものをよく見かけるので、気をつけています。BDS(Boycott Diverstment Sanctions)運動を代表として、ヴィーガン生活もそうですが、ボイコット運動を私もやってきました。でもヴィーガン生活をしていると、BDSの対象となる製品と重なることが多いので、あまり気にしなくていいこともあります。たとえば、マクドナルドに行かないようにするといったときに、ヴィーガンは最初から行かないじゃんみたいな。
他にも、スターバックスはBDS運動の中で直接的な対象のリストに入ることはあまりないですが、避ける人も多いです。アメリカのスタバの労働組合のSNSアカウントがパレスチナを支持するようなポストをしたときに、スタバの名称や類似のロゴを使用したらしく、それに対して会社側が抑圧的に動いたというのが理由です。スタバにはプラントベースのお菓子や食事がいっぱいあるので悩ましいのですが、私は行かないです。ヴィーガンだけで十分なんて全然思っていないし、もっと進めなきゃいけないと思っています。
私は一人で外食することがほぼありません。でも他人とは外食していいと思っているし、むしろ積極的に他人と行くようにしています。そこでヴィーガンがいる、存在しているということを示すためです。そのためにわざわざ出向いて、一緒に食卓を囲んで食べないというパフォーマティブな実践をして、私はここに食べられるものはないですというのを明確に伝えるようにしています。ただ、その時にヴィーガニズムを押し付けないようにはしています。たとえば、一緒に食卓を囲んでいる人たちに対して、「なんで肉を食べるんですか」といったようなことを私からは絶対に言わないようにしています。そうじゃなくて、単にここにヴィーガンがいるんだよということを伝える。なんなら、別に伝える必要もないんですよ、そこにいて、私は食べられないですって言うだけなので。
ただ、ヴィーガニズムや動物倫理について聞かれれば答えるようにしています。そこで、押し付けて気になるような主張をすることはあるかもしれませんけど、質問されたから答える、という形を守るようにしています。こちらからは何も言わないけど、でも存在感を出すためにわざわざ行っている。そして食べてないのに私も割り勘で払うみたいなことをやっているんですけど。もし払わなかったら、こいつ払わないで来ているだけみたいに思われちゃうので、それを避けたくてやっていますね。

2024年度 50周年記念助成「多元世界における動物の権利に関する人類学的研究
」代表者。 大石 そうしたパフォーマンスは哲学者のなかだからできるというのはある気がします。日本の多くの人は、日本で生まれて日本で暮らして、食事のための肉や野菜を購入して暮らしていると思います。そこでは、ヴィーガンは一つのよりよき選択になり得ます。
けれども、文化人類学者が現地の人々とともに生活をする場では、「肉」は生きるために欠かせないエネルギー源であったり、「肉」として最終的に食べられる動物との関わり方自体も資本主義のど真ん中で生きる私たちとは異なったりします。また、「会議室」の対談でも触れたように、植民地主義的で資本主義的な大豆などを生産する大規模な農業を行うために土地を奪われてきた人びとがいたりします。文化人類学のフィールドワークでは、そうした人びとと出会い、信頼関係を築き、彼らとともに彼らの生きる現実について考えることになります。現地の人びとに寄り添って研究を行っている人もいるなかで、ヴィーガンとしての存在感を出すことは、それだけで肉食主義とはまた別様の「植民地主義的な態度」を示すことになりえます。
もちろん文化人類学者のなかにもヴィーガンやベジタリアンの人もいますし、それが必ずしも問題となるわけではありません。ですが、これはすごく難しい問題だと思っています。家の食卓だったら自分で選んで食べればいい。けれども、誰かとともにする外食時のテーブルに並んでいるものは、全て何かしらの搾取の上で存在している可能性がある。それゆえに、誰がどのような搾取に加担し、誰がどのような搾取に抵抗しているのか、簡単には判断できない状況があるといえます。文化人類学を専門とし、かつフィールドでも生活をする私からすると、ヴィーガンとして振る舞うことは、必ずしもよきものとは言えないというのはあります。
それと同時に、家のなかでも誰とともに暮らしているかによって、食卓のあるべき姿や脱搾取の方向性も変わるのかもしれないとも思っています。たとえば、一緒に暮らす人の職業や、日々運動をするかしないか、「男性」とされる身体を持つか「女性」とされる身体を持つのかなどによって、何を食べるべきで何を食べないべきかが変わるかもしれないということです。一人暮らしであれば、自分で食べるものを決めることができますが、二人になった時点で食べ物を自分で選べる範囲は狭まります。家に子どもがいたらそれはより難しい問題になると思います。子どもの成長を考えた時に、どのタイミングで何を食べさせたらいいのかということは、ヴィーガンでなくても悩ましいことではないでしょうか。
── ヴィーガンになることはマイノリティになることだという竹下さんの論考を読ませてもらったんですけど、すごく考えさせられました。あの論考だとどういう視線を受けるかという結果がわかるのに、あえて外に行くことの不合理性を考えていらしたんですけど、そういうところはアクティビストだなと思いますし、重要な実践ですよね。紙の上だけで研究している人と全然違って、自分の行動で示していくという。
大石 実践としては非常に重要なのですが、ヴィーガンという名称が連帯を難しくしている一面もあるように思います。「ヴィーガン」そのものに、都市部に暮らす富裕層という食の選択肢を持つ人のイメージが付き纏います。また、実際に厳密なヴィーガンを実行できるのは、基本的には先進国の都市部に暮らし、肉食や動物利用をしなくても健康に生きることのできる生活や食糧の入手が可能な人びとに限られている。ですが、ヴィーガン料理を食べることが身体的に難しい人もいる。動物性の成分が含まれる医薬品を必要とする人もいる。世界中を見れば、そういった厳密な「ヴィーガン」を実践できない人の方が実際には多いはずです。そうであれば、あらゆる存在の脱搾取を押し出すという戦略もあるかとも思います。脱搾取であれば連帯できる層が厚くなるのではないでしょうか。
2024年度 50周年記念助成「人間中心主義を超えて:動物・AI・サイボーグから考える未来の人間社会像
」代表者。
竹下 同時にラベルも重要でもある気がしています。たとえば「脱搾取」というラベルやキーワードはその人が何を提げているかを分かりやすく示しますよね。「プラントベース」や「ヴィーガン」というのは何が食べられて何が食べられないかをわかりやすく示すラベルになっていると思います。
また、自分のアイデンティティを伝えるという点でも有用だと思います。とはいえ私はヴィーガンとしてアイデンティティを持っているわけではありません。個別の文脈でさまざまな形でパフォーマンスをしているというだけで、別にアイデンティティにはなっていません。他人にとってわかりやすくするために、「ヴィーガン」や「ノンバイナリー」といったラベルをパフォーマティブに使っている側面はあります。もちろん、私は実際にヴィーガンだし、ノンバイナリーではあるので、単にパフォーマティブにのみ使っているわけではありません。そのため、特定のラベルについてくるステレオタイプのせいで連帯しにくいことがある、という点には同意はするものの、一方でラベルが有用になることもあるので、ラベルをどう活用していくかも重要だと考えています。
ラベルを活用する時に考えていることの一つとして、今訴えかけている人口層がどこなのか、というのは重要だと思います。今のところ日本語で発表したり、日本語で身の回りの人たちに伝える時には「ヴィーガン」と言うほうが良いと思うので使っていますが、私自身のマインドとして近いのは「脱搾取」の方です。BDS運動についても、言えそうな文脈の時にはできるだけ言うようにしていて、私がボイコットしているのは人間以外の動物のためだけじゃないですよ、と伝えるようにしてます。そうやって、どのようにどのラベルを使えば、自分が訴えかけたい層に対して有効に働くかということは常に考えています。
大石 知り合いで調味料を売っている人がいます。私たちがかつて使っていた伝統的な調味料は、実はヴィーガンと言うまでもなく、搾取に加担しないものであり、動物性の原料も使っていないものだったりします。そうした調味料を販売する際に、ヴィーガンというラベルを使うとヴィーガンの人しか買わなくなってしまうため、誰にでも使ってほしい場合はあえてヴィーガンとは書かないことがあるそうです。戦略としてヴィーガンというラベルを竹下さんのようにパフォーマティブに使う場合もあれば、そうすると多くの人に届けたい商品が届かない場合があるため、戦略的に使わない場合もあるというのは興味深いですよね。
竹下 一方でヴィーガン商品かどうか見つけようとしたときには、ラベルがあった方が選びやすいので、使うべきかどうか判断するのは難しいですね。ラベルを使うことで届きやすくなる人もいれば、使わないことによってむしろそのヴィーガン商品を広めていくことにもなる。この前友達と話していたのは、逆に「動物性を使っています」っていうラベルをあえて貼るのがいいんじゃないかと。
── ヴィーガン対応かどうか、またはできるだけ搾取していないかどうかって、正しい情報を得るのもなかなか難しいですよね。情報発信している団体もあると思いますが、それが本当に正しい情報なのか、あと情報が出てこないから選択肢が少ない。きっと本当はいっぱい存在するはずなんでしょうけど。
大石 ムスリムの友人と一緒にいると、スーパーやコンビニで買い物をするときに製品表示ラベルを細かくチェックしているんですよね。それがハラル製品かどうかというより、ムスリムとして食べることが禁忌とされている成分が入っているかどうかを確認するためです。日常生活のなかでは、ヴィーガンもそのように動物性の成分が含まれているかどうかを判断するしかない気はします。身の回りにヴィーガン製品が揃っている場合を除いて、表示ラベルを細かく見なければならないのは大変なので、「動物性成分使っています」ラベルは良い案ですね。
竹下 私も製品表示や原材料の欄などを頻繁に見ています。スーパーやコンビニに行って、裏の原材料表示を片っ端から見ていく。でも原材料表示だけ見てもわからない時もあります。たとえば、乳化剤は植物性のものが多いですが、一部動物性が含まれていることもあります。着色料にも昆虫からとられているものがあります。
それからヴィーガンの中にも厳格さの程度があります。たとえば白砂糖は牛骨炭とか動物骨炭を使って精製するものがあるので、それを避けるという人がいます。そのため、精製方法を企業に問い合わせて確認することもあります。でも問い合わせても二次原料まではわかりませんと言われることもよくあります。なんでわからないの? と当初は思っていましたが、最近諦めてきました。そこまで確認するのは本当に大変で、時間も労力も足りないです。その意味でも食事を固定化するというのは結構楽で、一回確認してOKだったものだけ食べる。幸い私は毎日同じ食事でも飽きることがなくて平気です。それどころか、食事をいかに効率化するか、みたいなことをよく考えていて、その意味でも毎日同じ食事をするのは楽です。
── コンビニで買えるものやみんながよく知っているもので、これ意外と大丈夫なんですよみたいなものがもしあれば教えてください。
竹下 意外ではないですが、ミックスナッツやおにぎりは食べられます。野菜ジュースや豆乳も飲めますよね。おにぎりだと、昆布、梅干しなどと、具が入っていない白おにぎりはコンビニで買えます。とはいえ私は梅が嫌いなんです。私、食事の好き嫌いが結構あるんですよ。まずフルーツがそんなに好きじゃないです。それから、「ヴィーガン」で画像検索すると出てくるようなものも大体好きじゃないです。生野菜のサラダとか。加熱処理してほしいんですよね。
「ヴィーガン」っていうと、どうしても富裕層のイメージがついてきて、それによっておしゃれな料理のイメージもついてくるんです。私はそれに抵抗したいと思っていて、最近はジャンキーヴィーガンを名乗っていきたいと思っています。たとえばヴィーガンラーメンがあると言うと驚かれることもあるのですが、ジャンクな食べ物もあるよということを伝えていきたいですね。
──お二人が実践するなかで、国を意識することはありますか? 国がいろいろ規定していることもあると思うんですよね。たとえば国の規制によってこういうものが外国から入ってくる、入ってこないとかもあると思うし、伝統的な添加物を使っていない食がナショナリズムに使われたり、国の在り方みたいな部分で考えることはありますか?
大石 たとえば肉の流通は、まさに国が深く関与していますよね。肉の値段がもっと高ければ、人びとは別の食材を使うことを考えると思いますが、スーパーに行ったら肉や魚が安く売っているから、食事のメインとして手軽に買えてしまう。それはある意味で、食べたいわけでもないのに、肉を食べさせられている状況だと思います。この状況には、工業型畜産による肉の大量生産、食肉流通に関する国の取り決め、国家間の畜産物輸出入に関する貿易協定などが大きく影響していますよね。特に外国産の肉が安いから、みんな気軽に手に取る。私たちが何を食べるのかには、こうした国家や市場、国際関係が大きく影響を与えているといえるのではないでしょうか。動物搾取の問題は、単に個人の選択の問題ではなく、構造的な問題でもあるということです。
竹下 私は政治哲学の方向で考えることもあります。先ほど会議室で、動物に市民権を与える方法について話しましたが、その具体的な方法として、動物専門議員みたいな枠を作るという案があります。その枠の議員の人は動物に関わる政策のことに特化していて、動物に不利益にならない、どうしたら動物にとって利益になるかというのを考える専用の議員です。こうした形で、動物のための投票制度を別に作ったらどうかみたいな提案をしている人がいるんですけど、こうした提案の背景には、そもそも国の政策決定に動物の利害関係が反映されないことが問題としてあります。障害者運動で「私たち抜きに私たちのことを決めるな」というスローガンがありますが、まさに動物の話も似ていて、動物抜きに動物のことを決めるのは問題があると思っています。動物の利害関係をどうやって反映させればいいかというのはとても難しい問題ですが、当事者がいない中で、当事者に対して抑圧的に働くシステムが持続してしまっている状況は変えたいなと思います。
── ラディカルだけど、提案としてはすごく面白いですね。
哲学はエイリアンでもできる
大石 竹下さんのヴィーガン実践のなかで、植物はどういう位置づけなんでしょうか?「植物にも感覚があるから食べるべきではない」と言うつもりはもちろんないのですが、ヴィーガンに対する反論として「植物もまた生きている」というのがありますよね。
竹下 私が支持している基準の話をすると、意識の有無です。専門用語では有感性(sentience)と言いますね。現状の哲学や科学の知見を踏まえると、実は動物のすべてが意識を持っているわけではありません。たとえばヒトデ、ミジンコ、クリオネは、現状では意識があることを示す証拠が乏しいとされています。明確に意識があると言われているのは哺乳類と鳥類です。それ以外の脊椎動物や、タコやイカなどの頭足類、エビやカニなどの十脚類、昆虫にも、意識がある現実的な可能性があると言われています。
このように、意識があるかないかのグレーゾーンがすごく広いので、私はできる限り予防側にいようとは思っています。そういう意味では、動物と植物という区切りではなくて、意識がありそうかなさそうかで区切っています。一方で、倫理学者、哲学者の中でも、生命の有無、生きているかどうかを重視する人は割といると感じます。ただ、私は生きているかどうかにはフォーカスしていません。たとえばAIは生きていませんが、AIが意識を持つ可能性を私は結構真剣に考えています。しかし、意識を持つことと生きていることは異なることで、意識があるからといって生きていることにはなりません。そのため、生きてないけど意識を持っているという場合は、そうした存在について、私は道徳的に配慮すべき対象になると思っています。
もう少し正確にいえば、意識を生み出すメカニズムがあるかどうかが重要だと思っています。AIが意識を持ちうると言う時には、AIに、意識を生み出すメカニズムが備わっているかどうかということを考えます。AIというカテゴリーで見ているのではなく、AIがそのメカニズムを持っているかどうか。たとえば昆虫が意識を持っているとしたら、昆虫の脳のどの辺りが意識を生じさせるか、そのメカニズムの話になると思いますし、そういう点で配慮すべきかどうかを考える。
他にも、現状の意識研究だと、小脳は意識を生じさせる部位ではないと考えられています。小脳を損傷すると運動の協調がうまくいかなくなりますが、意識は保たれます。逆に、脳幹の一部が損傷して体をほとんど動かせなくなっても、意識ははっきりしている「閉じ込め症候群」という状態もあります。動けるか、反応があるかではなく、意識を生じさせるメカニズムが残っているかで考える。だから、カテゴリーというよりはメカニズムとして考えたいんです。そのため、植物か動物か、生き物か人工物か、というカテゴリーではなく、それらの存在がどのようなメカニズムを持っているかを考えています。
とはいえ、理論上の線引きの話と、実践上どこに線を引くかということに乖離が生じるケースはあります。意識を生み出すメカニズムを備えているかどうかを調べるのは難しいことです。そもそも、どのようなメカニズムが意識を生み出すのかについて、科学者や哲学者の間でまだ合意はありません。そのため、実践上は、ある程度、カテゴリーで区別する必要があり、動物かどうか、という点を気にかけています。
──もう少しお二人の専門分野のお話をお聞きしてもいいですか。文化人類学とAI、または哲学について。
竹下 先ほど会議室のほうで哲学における当事者性の話、誰が論じたかが重要か否かについて話しましたが、こういう関心は私に特有かもしれないとも感じています。文学部出身で哲学をしている人と話していると、その人たちの多くが人の書いた文章に興味関心があると感じます。これは、分析哲学の伝統で研究している人であってもそうなんですよね。私みたいに、分析哲学の中でも外部から入って専門として始めている場合は、人文学をやっている感じが全然しません。私は人が書いた文章かどうかにそんなに関心がないんです。だから、哲学は人文学の中に含まれますが、「人」が書く必要はないと思っています。
たとえば、AIが哲学論文を書いていてもいいと思っています。私は、人が書いた文章であることや、ヒューマニティーズ、すなわち人文的であることは重要ではないと思って研究をしているので、分析哲学の分野で研究していても、ある種の疎外感を感じることがあります。私はこれを「人文マインド」と呼んでいて、「人」の営みとか「人」の文章に関心があるみたいな感じです。哲学って、少なくとも部分的には普遍的な世界の構造について研究しているはずで、もしそうなら、人が書いたか、人の営みであるか、といったことはどうでもいいはずですよね。そのため、多くの哲学者との間で、ちょっと距離を感じます。
── AIが書いたものということは、人が作った世界じゃないものを受容する、アウトプットがどうであるかを見るということだと思うのですが、AIに書かせたものって結局人が作らせていると思うんですよね、完全にAIが指示されずに書いたものはないと思うんですけど。人が書いたことに関心があるという人は、人の世界を考えているからじゃないでしょうか。
竹下 最近「AI哲学者」、つまり実際にAIに哲学論文を書かせるという実験研究をしています。それをAI系の分野の学会で発表してきました。そこで哲学者からじゃなくて、言語研究とかAI研究をしている人から、「それって意味あるの?」みたいなことを言われました。正直びっくりしました。私にとっては「意味あるの?」っていう問いの意味がわからなかったです。たとえば、AI研究をAIがすることはすでに行われています。AIサイエンティストといって、Sakana AIというAI企業が提案している、AIによる自動研究手法もあります。
また、最近SNSでも話題になっていますが、AIが数学の未解決の問題を解いたといったことも言われています。こういった形で、哲学以外の研究について、AIがやることに、多くの人が意義を見出せると思うんですよね。それなのに、哲学になったら急に「それって意味あるの?」と言われるのが不思議でした。AIが出力した内容であろうが、人間が出力した内容であろうが、どちらも哲学的意義、つまり内容上の意義は変わらないと私は思います。AIが考えたことだからといって、人間の価値体系にはフィットしないとか、そんなことはないはずです。私のいう「誰が書いたかに関心がない」というのは、AIが書いていても人間が書いていても、もし可能なら人間以外の動物が哲学論文を書いてもいいと思っているんです。
だから、AI系の学会で、哲学論文の自動化の意味を聞かれて、すごく不思議な気分になりました。なんで哲学に対してそういうイメージがあるのかなと。その一つは、やっぱり哲学が「人文学」というくくりの中で考えられてしまうことによるのかなと思っています。そのため、私たちのAI哲学者という研究は、多くの人から奇妙に映っているかもしれません。実際、AI哲学者に自分たちの論文に対しての批判論文を書かせたんです。そうしたらすごくクリティカルなことを言ってきたので、すごいと思って素直に受け止めていたんですけど、こういうことはおそらく、他の人から見たら奇妙かもしれません。
こうしたAI研究を背景に、AIに論文著者になる資格(オーサーシップ)を認めるべきか、という議論があるんですけど、私は早く認めたらいいと思っています。もっとラディカルなことを言えば、現状のような形での著者資格のあり方はガラッと変わってもいいとさえ思っています。
大石 哲学はこれまでの哲学者たちとは異なる思考をすることで、別の見方を提示する学問だと思います。そうであれば、AIが哲学をして別の思考を提示するというのは、許容されるもののように思います。しかもAIは論証をしてくれるのであれば、哲学の可能性はAIによって広まるようにも感じます。ただ、それが文化人類学でも可能かというと、文化人類学者はデータの分析や思考だけではなく、フィールドワークにおける様々な実践や態度が伴うので難しいように思います。まず自分がフィールドに行かなければならず、そこでの関係のなかで生起した「私」の感情が研究そのものに大きな影響を与えたりします。こうしたことは少なくとも現在の具体的な身体を持たないAIにはできません。
AIができるのは「肘掛け椅子の人類学者」と揶揄されてきたような、他の文化人類学者がフィールドで収集したデータを俯瞰して分析する客観性を持った手法であるように思います。それが現代において「文化人類学の研究」や「民族誌」といえるかというと、倫理的に検討する必要があるかもしれません。
── たとえばAIにゾウ使いとゾウの様子を見させるとどうなるんですか。
大石 AIにゾウ使いとゾウの行動を観察させるという研究は既にありますが、それは動物の行動に関するものなので、文化人類学ではなく動物行動学の領域になります。動物行動学では、たとえばその場に漂うピリピリとした雰囲気などは分析の対象とすることは難しいかと思います。それと同様に、AIには行動を記録して分析することができても、空気感を読み取り、そこから思考するということは難しいのではないでしょうか。
── まだできないということですね。でも、できるようになるかもしれない。
大石 それでも、それは文化人類学というよりは行動研究ではないかという気がします。文化人類学では、その人や動物がどういう行動をしているかをただ見ているわけではなく、その場に参与して、それぞれの置かれた状況の中で何が起きているかを観察し、考えていくプロセスが必要になります。
竹下 AIロボティクスはまだ発展途中ですが、認知発達ロボティクスといって、たとえば、人間の感情を生じさせるようなメカニズムを機械的に作って、実験的に環境において学習させてみて、どう動作するようになるか、みたいなことを調べる研究はあります。だから、タンパク質ベースではない身体に、視覚や嗅覚など、人間と同じようにいろいろな感覚を読み取るようなセンサーを持つような、AI搭載ロボットを開発することはできるようになると思います。そのようなロボットがフィールドに行ったら、おそらく人間とは違う何かしらのインプット情報の嵐の中に置かれ、さらに参与して観察し、考えるプロセスを経るはずです。そのような存在がそこで何かを記述し始めたとしたら、人間じゃないものによる人類学研究ということにはならないんですかね。
大石 フィールドに置いたとしても「情報」しか読み取れず、メカニズム的な感情でしか生起しないのであれば、そこで自分が何かに共感したり、反感をもったり、自分と相手の間で何かが共鳴したりすることで、相互作用が生起して研究の方向性が変わり、研究自体が変容していくといったことは起きないように思います。現代の文化人類学で行われていることは、単に情報を集めて分析するということではありません。たとえば、フィールドワーク中に予期せぬ内戦が起きて、目の前で人が死んでいく状況に遭遇したとします。その時に、現地の人びとの経験とフィールドワーカーである「私」の経験の間には差異があるわけですけど、それぞれの過去の経験が重なり、何かが響応したり、ケアが生起するといったことが起きるかもしれません。
近年の文化人類学では、そうした単なる「調査」を超えて私たちと彼らの間で生起する現実を記述し、考えようとしています。AIロボットがものすごく発達して、もはや人間と見分けがつかないくらいの心と身体の動きを持ち、自身の人生を生きてきた経験を有しているのなら、文化人類学者になれるかもしれません。
竹下 まさにそのような共感ができたり、感情を持つかもしれないと思っています。さきほどAIが意識を持つかもしれないという話をしましたが、意識や感情って、タンパク質と水分の体以外からも生じ得ると私は思っています。その意味で、そういう経験ができるようなAIやロボットをフィールドに置いた時にどうなるか、というところに関心があります。
大石 たとえば隣の人が夫を亡くして嘆き悲しんでいて声をかける時に、「私」としてのAIロボットにもそういう経験が実際にあって、あなたの気持ちは完璧には理解できないけれども、共感しているという状況が生じるのでしょうか。
竹下 そうです。それができそうだなって思ったんです。
大石 それくらいにAIロボットと言われるものが世界で一般的に人びとと関わるものになっていたら、文化人類学的なデータも収集できそうです。ただAIロボットの持つ「経験」とはどのようなものなのでしょうか。文化人類学の研究では、研究だけでなく人生において蓄積されてきた個々のフィールドワーカーの経験が、大きな役割を果たすように思います。それは、現地の人々との関わり方や、フィールドで何に注目し、何をデータとして記録するのかにも反映されます。それが文化人類学的なフィールドワークには、客観的なデータはありえないということです。
フィールドワークをするのは、関係のなかでそれぞれの人生を生きてきた「私」であり、竹下さんだったら「竹下さん」でしかありません。個別具体的な誰かと誰かの出会いがフィールドワークの根幹にあるので、AIロボットが人格を持った存在とみなされない状況や、泣いたり笑ったり喧嘩したりといった交流ができない状況、経験が偽造されたものとみなされる状況では、AIロボットによる文化人類学的なデータとされるものの収集は難しいでしょう。加えて、文化人類学では、フィールドワーカーの感情の揺れ動きもまた研究を進める上で重要だとされています。先ほどと同じ事例を取り上げれば、夫を亡くして悲しむ相手の話を聞いて、自分のなかの誰かを亡くした経験と共鳴して、涙がこみ上げてくる。それによって、相手の状況への理解が深まるといったことが生じうるのか。それから、そもそもそのような文化人類学的な研究をAIロボットにやらせる必要性がどこにあるのかも考える必要がありそうです。
竹下 私はそういう感じで考えていたわけではなくて、むしろAIに当事者性を持たせることができると思っています。つまり、なぜAIをフィールドに置きたいかというと、身体を持っているAIをフィールドに置くことで、AIがある種の個別的な存在としてその場で記述を始めるようにできると思うんですね。もちろんここでのAIは、現在あるようなAIではなく、先ほど紹介したような、身体を持ち、それぞれが感情や認知を発達させる、そういう研究の延長線上にあるAIやロボットのことです。このような試みは、人格を持ったAIになり得るかどうかを調べる実験にもなるとも思います。大石さんの言うように、誰が研究したかによってそのフィールドワークの見え方が変わることがあるし、それらは研究上重要だと思います。もしそうであれば、ある個別的なAIが行ったフィールドワークや研究というのも、ある個別的な人間が行った文化人類学的な研究と同様、独自の研究上の意義があるのではないかと思いました。
一方で、私は、哲学ってエイリアンでもできると考えています。宇宙の生命体、あるいは生命体じゃなくても未知の知的存在であっても、哲学研究ができるだろうと思っています。一部の哲学者はこれに反対するかもしれません。哲学もまた人間の営みだと考えている人たちがいるからです。それでも、私は哲学研究から当事者性を外したいので、人間がしなきゃいけないということはないと思っています。他方で、全く別の理由で、もしかしたら人類学研究も、別の当事者性を持っているエイリアンがしてもいいかもしれないし、AIロボットがしてもいいかもしれないと思ったんです。そこで必要になるような経験、あるいはそのメカニズムを備えているのであれば、むしろ全く違う人類学研究のあり方が見えてくるかもしれないのではないかと。
大石 AIロボットやエイリアンがフィールドワークや人類についての研究をしても良いのはその通りだと思います。ですが、それが現代的な意味での「文化人類学の研究」なのかどうかは、議論の余地がありそうです。文化人類学者は、現地の人びとに寄り添うことを基本として、彼らにとっての世界のあり方を記述することで私たちの「当たり前」を相対化するという仕事をしています。その際には、人びとに差別的な眼差しを生み出すような記述をしないよう細心の配慮を払いながら、人びとが生きる私たちとは別様の世界を描き出すことを試みます。AIロボットの経験や感情がどのようなものかということに私がこだわるのは、このような現地の人びとに寄り添った研究をすることが文化人類学の重要な仕事だと考えているからです。
AIロボットの書いたものが、現地の人びとにとって「私たちの現実だ」と受け入れられることがなければ、文化人類学の研究としては倫理的に問題があると言えるでしょう。文化人類学の研究には向き合うべき現地の人びとがいて、単にこれまでの研究と異なる議論や見方を提示すれば良いというわけではないということが、哲学との違いなのかもしれません。
また、現代の少なくない文化人類学者には、研究としてフィールドに義務的に行くというよりは、フィールドや現地の人びとに惹かれてやまないという一面があるように思います。研究そのものが、私のように個人の経験や関心に突き動かされて生起して、フィールドの人びととの関わりのなかでどんどん変わっていく。個々の内側から「フィールドに行かなければ!」という気持ちが湧き上がる。それはフィールドが好きだから行きたいということではなくて、「行かなきゃ!!」と何かに突き動かされるような感覚です。それがAIロボットにもあるのかは気になります。
竹下 その自主性は難しいかもしれないですね。現状のAIが動くには、何かしらのデータの入力を必要としてしまいます。認知発達ロボティクスは、そういう気持ちをAIに実装しようとして、内発的な好奇心や動機づけを設計しようとはしていますが、まだ要求水準には達していないように思います。
人間や動物にとってのAIの有益性とは?
── 藤子不二雄の『パーマン』というマンガ作品にはコピーロボットというのがいて、持ち主がロボットの鼻を押すと押した人と全く同じコピーができるんです。そして一日の終わりにそのロボットにおでこをつけると、ロボットが何をしてきたのかという全部の情報が受け取れる。自分の人格を持つ存在をもう一つ作れて情報や経験の共有ができるんです。だからそういう、もしかしたらAIがこれまでの自分の経験や、こういうことが起きた時にあなたはどっちを選びますか?というようなことを全部コピーできたらまた違いますかね。
大石 「フィールドに行かなきゃ!」というような衝動が湧き上がるとしたら、それは可能かもしれません。
── 過去の経験とか自分の思考回路を全部インプットしていけばコピーロボットに近いものになって、でもそこにコピー元の人間との違いが出るのかどうかも気になりますね。
竹下 私は最近、基本的に自分の研究生活にAIをどんどん関わらせていて、自分の経験や思考回路を全部インプットするようにしてます。論文を読んだらメモを取るようにしているのですが、それを全てパソコン上に保存していて、AIが読み込める状態にしています。そうすると、私が研究アイデアを話したら、過去の研究メモを見て、整理し、その情報をもとに私とディスカッションするようになっています。研究に関する私のデータの量であれば、AIと私はほぼ一緒ですが、他の種類のデータをもっと増やしていきたいなと思っています。50%パーマンとか、もっとパーマン度(コピー度)を高めたい。そうしたらAIのほうが賢くなりそうですね。
── そこの差について知りたいです。同じ体験をしたら、同じ感情や考えが出てくるのか。
竹下 AIはネット上の大量のデータを学習した後なので、むしろ私のデータは追加データです。知識や情報の出どころとその量が私と格段に違います。人間が24時間ずっと読み続けて1万年以上かかるテキストデータが、AIの学習データに使用されています。テキストデータだけで何テラバイトのデータ量です。だから、その点で、その差はもう出ています。もちろんこれはテキストデータの話なので、フィールドで得られるようなものじゃないし、感覚データではない。ネット上のデータにはもちろん画像データもあるし、最近のマルチモーダル、つまり言語以外のデータの種類を扱えるAIであれば、音声や動画のデータも学習しています。
しかし、それらのデータは、あくまでも、画像を撮影・作成した場所とか、録音されたものだけが入っているのであって、そこで収集されていないデータは入っていません。そういう意味では、フィールドワーク研究の意義は、新しいデータをもたらしてくれるという点で、AI研究が発達した後も重要であり続けると思います。もちろん、フィールドワークの意義はそれに尽きるわけではありませんが。
また、それだけ大量のデータを読み込んだ人間も存在しないので、そういう存在が何か生み出してくる新たな知的貢献もあると思っています。哲学という営みは人々の常識を覆すことを一つの成果としているわけですが、全く異なる経験をしてきたAI哲学者だったら、哲学自体が持っていた常識さえも覆してくれるかもしれないし、そういう貢献をしてくれるのだったらすごく嬉しいです。
大石 AI哲学者が論文を書いたとするじゃないですか。それを誰が査読するのでしょうか?
竹下 現状では制度が整っていませんが、AIが書いたとわかるように書かれている必要はありますね。数学は証明と反例を与えるかどうかが重要な要素の一つだと思います。この点では、その証明をその後誰かがチェックできればいいので、今のところうまくいくような気がします。
大石 他の非形式的な、それこそ哲学のようなタイプの学問で、AIが書いた文章が重要なことを言っていそうだということになったら、誰がどのようにチェックするのでしょうか。
竹下 たしかにどうなるんだろう。
── そこは気にかかりますね。AIが書いて、AIが査読して、AIがそれを吸収して。それで学問が発展すると、AIたちがやっている学問を人間がもらうみたいな感じになりますよね。
竹下 私はそれでもいいかなと思います。AIだけで行われる学問から人間が得られるものがあるなら、なんであれそこから得ていきたい、という風に思っています。このことは一部の研究者にとって不幸なことで、研究者の人口が減る可能性はある気はします。たとえば、研究のモチベーションとして、まさに自分が研究することに意味を見出しているような人がいますが、そういう人にとってはつまらない世の中になっていく可能性はあります。でも、私みたいなタイプだと気にならないです。
大石 先ほど触れたゾウに関する動物行動学の研究でも、AIは注目されています。たとえば、人とゾウの相互行為に関して動物行動学的に検証しようとしても、結果が出しにくい状況があります。私もゾウ使いとゾウの相互交渉について240時間分のデータを収集したのですが、動物行動学の領域で示せるような統計的な結果を出すことに苦労しています。そこにAIの可能性があるのではないかと言われています。たとえば、超低周波音や微細な身体反応を捉えることが可能なカメラを投入し、人間には見たり、感知したりすることのできないデータを収集してAIに分析させることで、これまでにない結果が導き出される可能性があるのではないかということです。ゾウは鼻の奥から超低周波音を出して、足の裏で聞き取ることで会話をしています。それは人間には基本的には聞こえない会話です。そういったものも含めてAIに分析してもらったら、人間には知覚できないようなゾウの姿が見えてくるのかもしれません。
竹下 人間ができない作業をAIがやってくれる可能性はあります。AIがもっと人間にも動物にも有益な存在として使われてほしいし、開発もされてほしいですね。
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.52掲載(加筆web版)
発行日:2026年10月20日
