※本ページの内容は広報誌『JOINT』に載せきれなかった情報を追加した拡大版です。
出会いのはじまり
── お二人は50周年記念助成で共に採択されたことをきっかけに知り合い、一緒に勉強会や研究会を重ねているそうですね。お互いに専門とする学問分野が異なり、研究アプローチの方法も違いますが、それぞれ普段はどのような研究をされていて、双方の研究にどんなつながりがあるとお考えなのか、今日はゆっくりお話を聞かせてください。
まず大石さんから、タイのゾウの研究に入られたきっかけと、そもそもなぜゾウなのか、そしてなぜ動物の権利に注目されたのか、お話をいただけますか。

2024年度 50周年記念助成「多元世界における動物の権利に関する人類学的研究
」代表者。大石 私は、研究ありきで今の調査地や対象を選んだというわけではないんです。研究を始める何年も前にタイ東北部のゾウの村の人びとと出会い、個人的な付き合いを続けてきました。きっかけは、高校生の時に貧困や障害などについて海外の現状を知りたいと思い、スタディツアーに参加したことでした。訪問先がタイで、スリン県の「ゾウの村」と呼ばれる地域を訪問しました。ホームステイで一つ年下の女子生徒の家に泊めてもらったのですが、彼女のお兄さんが韓国でのゾウ使いの仕事を終えて帰ってきたところでした。
韓国と日本は近いということで、お兄さんは韓国語と片言の英語と、彼らはクアイというエスニック集団なので母語であるクアイ語、そしてタイ語を使って私に話しかけてくれました。その際に、家族が総出で家のいたるところからゾウの写真を持ってきてくれ、彼らと関係のあったゾウの話をしてくれました。何を言っているのか詳細はわからなかったのですが、彼らはゾウのことが大好きなんだということがわかる、とても印象的な光景でした。
スタディツアーを終えて帰国すると、何を学んだのかを報告する機会がありました。それがきっかけで気づいたのは、「数日間滞在しただけでは何もわからない」ということがわかったということでした。たった数日だけの滞在では、なぜその人たちがゾウのことをこんなに愛おしそうに語っているのかはわからなかったわけです。また、当時ゾウの村のゾウのほとんどは出稼ぎに出ていたので、村のなかでゾウを見かけることはあまりありませんでした。それにもかかわらず、村の人たちは熱心にゾウのことを語っている。これは何なんだろうと思い、それを知りたくてゾウの村に通うようになりました。
その後、大学に入ってから文化人類学という学問に出会いました。文化人類学では、フィールドワークにおいて現地の人びとと信頼関係を構築することや、現地の人びとの視座を学ぶことを重視しています。私も現地の人びとに寄り添うような関わり方がしたいと思っていたので、文化人類学に強く惹かれました。ゾウの村に通いながら文化人類学を学ぶようになったことで、ゾウの村での研究を始めました。
── 「動物の権利」という部分はいかがでしょうか。
大石 ゾウの村に通い続けてわかったことの一つは、ゾウは良くも悪くも社会から注目されやすい存在だということです。タイ国内において、ゾウは文化や宗教、王室などにとって重要な「象徴的存在」とされています。一方、主に欧米の動物擁護団体や個人は、ゾウを保全や保護の対象である「野生動物」とみなしています。こうした人びとが、ゾウを見るために現地まで来ることがあります。その際に「ゾウを飼育していること自体がゾウに対する虐待である」として、時には暴力的な手段を用いて現地の人びとを非難する様子を私は目の当たりにしてきました。それに対して、クアイのゾウ使いたちは「ゾウは自分の家族である」という説明をするのですが、それは常に「言い訳」や「嘘」と捉えられてきました。
もちろん、動物擁護団体が依拠する「動物の権利」や「動物の福祉」といった概念は、動物が搾取されている状況を改善する上で重要であるということはわかるわけです。その一方で、搾取や虐待があるということを前提としてゾウ使いとゾウを見てしまうと、表面的にはどうしても搾取や虐待のある関係に見えてしまう。けれども、実際によく観察してみると、そこには搾取や虐待とは言えないような関係があるわけです。虐待どころかその関係はとても親密で、ゾウ使いもゾウもお互いを信頼しながら暮らしている。そういった状況をどう捉えたらいいのかと考えた時に、そもそも「動物の権利」とは何なのかということをもう一度問い直していかなければ、私たちは偏見を振りかざして自分がよく知らないものを自分の先入観で判断してしまう。そして、それがある種の「暴力」として立ち現れ、現地のゾウ使いだけではなくゾウにも被害をもたらす。そういった現状があるということを身をもって感じてきたことから、これまで行ってきた人間と動物の関係についての文化人類学的な研究の延長として、「動物の権利」について考え始めました。

2024年度 50周年記念助成「人間中心主義を超えて:動物・AI・サイボーグから考える未来の人間社会像
」代表者。── 竹下さんに伺います。竹下さんは今回のプロジェクトで人間中心主義を問い直すというテーマを掲げられていますが、なぜ人間中心主義が気になったのか、そしてなぜそれをAI研究の方まで広げていくことになったのかを教えてください。
竹下 私は学部の頃は工学部で、院生時代は情報科学研究院に属していたので、AIを技術的に研究したいと思っていました。ちょうどAIが注目され始め、自分でも勉強を始めたころに、動物倫理学に出会いました。ピーター・シンガーの『実践の倫理』という本を読んだのがきっかけで、それを通じて種差別という概念を知って、人間が人間以外の存在に対してどれほど抑圧的に振る舞っているかについて、問題意識を持ち始めました。
博士課程で研究を続けていた時は、動物倫理学は勉強するくらいで、基本的にはAI研究をしていこうと思っていました。ただ、AI倫理やロボット倫理などの論文を読むにつれ、だんだん人間以外の存在が道徳的にどう扱われるのかといった視点でAIと動物の双方を見るようになり、そこからAIと動物の倫理学を考えたいと思うようになりました。そういう成り行きで、人間以外の存在という枠組みから、脱人間中心主義をテーマに研究をするようになりました。
私は人間中心主義(anthropocentrism)には大きく分けて二つの意味があると思っています。ひとつは記述的な人間中心主義です。たとえば、人間を基準にして動物の生態や心理、行動を理解しようとする考え方です。擬人化もその一種かもしれません。人間を軸にして、さまざまなものを記述、説明、解釈、研究したりする、そういう記述的な人間中心主義というものがあるかと思います。
もうひとつが、私が問題意識を持って研究に取り組んでいることですが、道徳的、あるいは規範的な人間中心主義というものです。道徳的な重要さでは人間が一番上にいて、その下に動物や他のさまざまな存在が従属している、と考える立場で、人間を特権視するものです。もちろん両方とも独自の問題を抱えているとは思いますが、倫理学として問い直したいのは、やはり道徳的な意味での人間中心主義のほうです。人間が道徳的に特別だというような考え方を、どうやって批判的に問い直していけるかというところに関心があります。
人間と人間以外を区別し、階層的に捉えて優劣をつける種差別は、まさにそうした規範的な人間中心主義の一つで、これを批判するのが動物倫理学だと思います。今後はAIもこの階層の中で従属側に位置づけられてくるかもしれない。AIがもし道徳的配慮の対象になりうるのだとしたら、AIを人間よりも劣った存在として位置付けるのでなくて、この階層自体をどうやって崩すのかが重要だと思います。そのため、こうした階層をどう批判的に見るかというところに、私はずっと問題意識を持って研究をしています。たとえば人種差別や性差別は今なお多く残っていますが、こうした差別はいずれも、ある種の優劣をつけるということだと思います。私は、そうした階層をなくし、平等にしていくことを目指して研究しています。
大石 人間中心主義という概念とともに、人間例外主義(human exceptionalism)という概念もあります。文化人類学や近接する領域では、人間をさまざまな生き物の上に立つ例外的な存在とみなすキリスト教的な思想に基づく立場をそう呼んでおり、人間中心主義とは区別されています。人間中心主義が何を指すのかは、分野や文脈によって捉え方が異なります。ですが、問題とされるのは、人間を主体、それ以外の存在を客体とみなし、人間の視座を正しい見方として想定することかと思います。ここでいう「人間」には誰が含まれているのか、そして誰が「人間」以外の存在とみなされるのか、そこが人間例外主義にもつながる問題です。
文化人類学においても人間中心主義批判は行われてきましたが、近年はその見直しも生じています。なぜかというと、人間を中心として見ること自体は、実は私たちが日常的に行っていることでもあり、人間の身体を持つ以上は逃れることができないものだからです。しかし、ここでの「人間」とは、人間中心主義批判において指摘されてきた、キリスト教に依拠した「白人男性」を基準とした「人間」や、「人間」以外の存在とされる人びとや動植物などを客体化して支配する欧米的な「人間」のことではありません。たとえばアイヌの人びとにとっての「人間」とは、和人のことではなく、アイヌ自身のことであることが知られています。ゾウの村に暮らすクアイの人びとの自称である「クアイ(kuay)」もまた、「人間」を意味します。彼らにとって「人間」とは、多様な存在との関係のなかで生きる彼ら自身のことであり、それは普遍性が想定される概念ではないのです。このように、世界中には多数の「人間」概念があります。その「人間」概念を基準として、それぞれの身体から世界を見ることは、ある意味で世界中の人びとにとって避けられないことでしょう。
同時に、動物もまた、それぞれが身体を持った主体としての誰かであり、その視座から世界を見ている。それを否定して、神のような位置から客観的に世界を見ることはできないのではないかという議論が、近年の文化人類学ではなされています。その辺りは倫理学でも検討されていたりしますか。
竹下 少なくとも私が研究している倫理学は欧米で発展してきたもので、理性的な主体としての人間というものが前提になっていることが多いと思います。そして、おそらく、そこに白人男性がモデルとして想定されている部分があったのはその通りだと思います。ただ、動物倫理学もフェミニズムとの接続を図ってきた歴史があり、生命倫理や環境倫理など、他のいろんな分野の倫理学との接続を図りながら、そもそも動物とは何なのかとか、人間とは何なのかということも考え直してきた部分は間違いなくあると思います。
人間中心主義という言葉が使われるとき、「人間」という語はすでに規範的な意味を帯びていて、誰が人間に含まれるのかが先に決められているように感じます。ですから、「人間」の概念はひとつではないという文化人類学の指摘は、その通りだと思います。そもそも人間とは何なのかということを問い直していけたらいいなというのは常々思っています。
AIは最近すごく発展してきていて、いくつかの課題では人間の成績を上回ったと言われています。ただ、そこでもやはり「人間とは知的な存在である」ということが前提にされているように感じていて、私はその点でAI研究に対してモヤモヤするところが結構あります。一方で、人間じゃないとされるAIが、人間を超えるという形で人間概念を問い直す契機にもなってくれるんじゃないかなと思っています。そういう意味でAI研究は、人間中心主義に対して全く別の角度から批判的に見ることができるものなのでは、と感じています。
本当はそれを動物倫理でやりたかったんですが、あまりに、動物は人間的ではない、とされ、さらに人間より劣っているものとして強く位置づけられてきたので、動物の側から人間観を批判的に問い直す、見方や考え方を揺るがすのはものすごく難しいと感じています。AI倫理からも入っていくことで、人間についての規範的な見方を問い直せたら面白いのではと考えています。
共通性と差異の対話の中で考える
大石 私と竹下さんは50周年記念助成の贈呈式ではじめて出会ったわけですが、最近、動物と倫理に関する分野横断的な研究会を一緒に立ち上げました。そこでは、メンバーが専門とする倫理学や文化人類学、法学、文学とはそもそもどういう学問なのか、というところから対話を始めました。また、私たちは異なる分野を専門としつつも、動物に関連する研究を行っているという部分でつながっているので、それにまつわる困難についても一緒に考えようとしています。たとえば、それぞれの学問において動物について考えることには、どのような障壁があるのか。加えてメンバーの中にはアクティビストとして活動している人もいるので、動物解放やヴィーガニズムに関する議論や主張をしたときに、他の研究者や学会からどう捉えられるのかなどを、まずは共有してみることにしました。
人間を中心に置いている学問の多くでは、動物を取り扱うこと自体に難しさがあります。そうした学問において、動物がどのような存在として捉えられてきたかというと、人間より劣る存在、もしくは取るに足りない存在と捉えられてきたといえます。たとえば文化人類学においては、「資源」として人間に利用される存在や、「象徴」として人間に意味を付与される存在として捉えられており、動物が人間とともに生きる存在として捉えられるようになったのは比較的最近のことです。その難しさそのものを、私たちは研究会を通じて考えようとしています。
── 竹下さんが関わっている「動物倫理かいぎ」について少し説明していただけますか。
竹下 「動物倫理かいぎ」というのは2024年12月頃に立ち上げた学会のような学術組織です。ただ、学術研究者しか来ないいわゆる「学会」にはしたくなくて、できる限り、アクティビストの人はもちろん、研究やアクティビズムに積極的に参加してはいないけど動物倫理に関心を持っているような人たちも集まれる場所にしたいというのは、立ち上げメンバー全員が最初から考えていたことです。
たとえば、この研究大会で2026年1月に取り上げたのはクマに関する問題です。昨今クマに関しての問題がとても話題になっていますが、この問題をどういうふうに考えればよいのか。一方的な駆除だけではない形で、どうやってクマと付き合っていけばいいのかを考えようというワークショップをしました。大石さんも来てくださいましたが、研究者だけじゃなくて、アクティビストの人も含めて、さまざまな人に参加していただいたワークショップになりました。
今回はクマに関する話題を取り上げましたが、私を含めた動物倫理学の専門家はいたものの、クマの生態に関する専門家やクマ被害の当事者を招くことができなかったので、次はテーマが何であれ、ぜひ倫理学以外の専門家を招きたいと思っています。動物が関わる問題は、対話だけで解決するのは難しいと思っています。ましてや、まだ立ち上げて間もない学術組織のグループによるワークショップの成果が行政の政策につながったり、人々を大きく動かしたりするのは簡単ではありません。そのため私はこのワークショップを実験的な場所として捉えています。
大石 ワークショップは、どうしても参加者が複雑な現実のなかに留まりにくく、安易な回答に落ち着きがちなところが難しさだと思います。ですが、私自身は現実の難しさのなかに留まることがとても重要だと思っています。研究にしても、現実の複雑さを看過しないよう注意を払うことで、現場の人びとの実践にもコミットできる可能性を高めることができるはずです。私が竹下さんと話していて楽しいのは、一緒に現実の難しさに留まってくれるからです。難しくて簡単には答えが出ないことを考えることに、根気よく付き合ってくださるので、そこが好きなところです。
── 複雑なものを複雑なままにしておけるということは、今の世の中に欠けがちだと思うので、すごく重要なことだなと思います。参加している人にそういう場を提供する機会になりますよね。竹下さんは取り上げるテーマは何でもいいとおっしゃいましたが、日本の市民と一緒に考えるにあたって、動物の種類が変わると答えが変わることはありえるのでしょうか。
大石 ありえると思います。フランスの哲学者ジャック・デリダは、動物が“animal”として単数形で捉えられていて、複数形の“animals”として捉えられていないということについて問題提起しています。つまり、動物とされる多様な生物種のなかの差異に注目する必要があるんじゃないかと言っているんですね。動物といってもそこには多様なものたちがいて、もちろん共通性もあるものの、差異のある身体を持ち、それぞれ別様の関係を築いて生きている。それは重要な指摘だと私は思っています。哲学においてはデリダ以外でもそういった議論が展開されているのではないでしょうか?
竹下 たとえばスー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの『人と動物の政治共同体(原題:Zoopolis)』という本では、動物も私たちの政治共同体の中に含めて考える、かなりラディカルな議論をしています。この本は、動物を人間との関係によって三つに分けます。
一つ目は、イヌやネコ、ウシやブタのように家畜化され、人間と密接に暮らしている動物で、かれらには市民権を認めます。二つ目は、ネズミやカラスなど、人間と生活圏をある程度は共有しているけれども、家畜化されていないか、されていたとしても人間との関係がそこまで密接ではないような存在です。かれらにはデニズンシップ(denizenship)というものを認めます。これは、人間でいうと、国籍はないけれど長期間住んでいる人に対して、選挙権等の一部の権利は認めないものの、社会保障や定住の権利など、一定程度の権利を与えるというような中間的な地位のことです。三つ目は野生動物で、かれらの共同体を主権を持つ存在、「主権国家」として尊重し、私たちはそれに対して過度に介入しない。介入するとしても、たとえば災害で困っているときに助ける程度にとどめる。
ドナルドソンとキムリッカはこのように、人と動物の関係の距離に応じて政治が認める権利を変えようという提案をしているんです。動物倫理学の中ではこのような理論を関係的アプローチなどというのですが、そういう理論も検討しつつ、動物の差異を踏まえて考えることが、動物倫理学のひとつの大きな流れになってきたと感じます。
大石 共通性と差異、もしくは普遍性と多様性というのは、文化人類学において非常に重要な主題の一つです。なぜなら、文化人類学ではフィールドの事例について個別具体的な文脈を論じるとともに、それを抽象化して普遍性のある概念についても論じているからです。私が竹下さんと対話できるのは、そういった共通性だけでなく差異も捉えようとするスタンスをお持ちだからだと思います。けれども、学問としての哲学は、どちらかというと普遍性について考える傾向が強いように思います。
かつて文化人類学では、普遍性を重視したあまり、多様な文化の差異を進化論的に「進化」や「発展」の度合いの違いとして捉えてしまいました。それが結果的に、先住民を「未開の人びと」とみなす差別的な見方を広め、植民地主義に加担してしまったという反省があります。ここには、自分たちの文化を普遍的なものとみなし、自分の文化の価値観で相手の文化を一方的に評価する自文化中心主義が存在していたことが指摘されています。それゆえ、現代の文化人類学では共通性とともに、人間の間、及び人間とそれ以外の存在の間にある差異を強調するようになっています。
竹下 共通性と差異、両方大事だというのは私もその通りだと思います。人間と人間以外の動物に差異があるのは当然で、その差異を認めながら、共通性と差異のどちらに軸足を置くかが、哲学と文化人類学の違いだと言われれば、確かにそうだと思います。
私は大石さんがアクティビスト・マインドを持っているところがとても好きなんです。フィールドワークで記述するだけでなく、何が問題なのかを真剣に考えながら、それをどう変えていきたいかまで話してくれるところがとても素敵だなと思っています。倫理学者って、たしかに規範的なことを言うんですけど、具体的なアクティビズムの活動、団体や学会を立ち上げる、ワークショップをする、といったことまでやる倫理学者ってそんなに多いわけじゃないんですよ。あくまでも、我々がやっているのは哲学だ、という線引きがあって、学説の検討に留まっている傾向があると感じます。
でも私自身はアクティビストとしても倫理学者としても活動したいと思っています。むしろ研究とアクティビズムがつながっていることが学問をするということだと思っています。哲学の中には研究と社会的な活動を切り離すイメージが根強く残っていますが、私はそれに抵抗したい。私自身は両者を結びつけて一緒に行うことこそが、学問をすることだと思っています。
大石 私は文化人類学と出会う前からゾウの村の人びととの付き合いがあったので、彼らが直面させられている現実を変えたいという気持ちを強く持ってきました。そのためには、文化人類学者として論文を書くだけではなくて、プラスアルファとして何かをやらなければならないと思っています。それは究極には、自分の「正しさ」を振りかざすような態度や差別を容認するような態度を許してしまう社会を変えていくことだと思っています。なぜかというと、ゾウの村の人びとの現実を変えるためには、ゾウの村の人びととゾウの向き合う現実だけではなく、多様な人びとと動物の向き合う現実についても考える必要があると思っているからです。
日本でも排外主義が高まるなかで、外国から来た労働者や、移民、在日の人びとなどに対する差別的な眼差しが広まっています。こうした「他者」とされる人びとに向けられる差別的な眼差しが、まわりにまわってゾウ使いたちを理解せずに批判する差別的な眼差しにつながっていると思っています。また、こうした眼差しは、民族的なマイノリティに対してのみならず、私たちの日常生活の中にある男女の間で生起するさまざまな不均衡性であったり、性的少数者と呼ばれる人びとや障害者とされる人びとに対する差別ともつながっているので、何かしらの形で社会を変えていきたいという思いを持っています。
私と竹下さんは、動物に関する問題を単に動物だけの問題とは考えていなくて、フェミニズムなどの問題との関わりの中で考えていることに共通性があります。それがあるからこそ、竹下さんを信頼して対話を重ねることができています。哲学と文化人類学ではもちろん異なる部分はあるのですが、対話が可能であるということに大きな希望を感じます。
「インサイダー・アウトサイダー」の視点からAIを見る
── 竹下さんはいろんなメディアで発信されていますので、「竹下昌志」が今こういうことをして、こう考えています、というのを前面に出していかざるを得ない場合が多々あると思います。ご自分の研究を語るうえで、自分がこうあらねばならないという意識はありますか。
竹下 いや、ないですね。むしろ逆で、私という存在はあくまでもメディア発信のための単なる手段だと思っています。たとえばヴィーガンを続けていることも、もちろん動物のためというのはあるんですけど、それと同時に、動物のために活動しているという姿を見せるためでもあります。ヴィーガンとして人前に出ることで伝わるものがある。さらに言えば、わざわざメディアに出るのも、私が持っているような問題関心をメディアに出て発信してくれる人がまだ少ないからです。
ヴィーガンやノンバイナリーといったマイノリティとしてメディアに出ることは大変なことなので、少ないのは仕方ないと思っています。私としては、目的として社会をなんとかしていい方に変えていきたいというのがまずあって、そのために有効であれば自分自身も発信の道具として使うという感じです。最近はYouTubeやABEMAなど4つのメディアに出させてもらいました。
大石 そうしたメディア出演をされるなかで、誹謗中傷に近いコメントがつくこともあると竹下さんからは伺っています。それでも、竹下さんはメディア出演を利用することで、パフォーマンスとしてさまざまなことをやろうとしている。それは本当にすごいことだと思います。
じつは今日、竹下さんが何を着てくるのか楽しみにしていたんです。どのような服を着るのかもパフォーマンスのひとつだと思うので。一緒に写真を撮るかもしれないと思い、私は目立たない服を選んできました。
竹下 これ昨日買ったばかりなんですよ。友人と相談して、ヘアスタイルから洋服までトータルコーディネートしました。
大石 すごく可愛いですよね。とても似合ってます!
── ところで、AIのデータ処理にはたくさんの電気を使い、熱も発するし、大量の水が必要と言われています。そうするとお二人が研究して目指していらっしゃる良い世の中が遠くなるような気もするんですけど。環境が壊れていくわけで……。
大石 それは私もずっと気になっていました。AIとヴィーガンは相容れないんじゃないかと思うところがあって、竹下さんに伺ってみたいと思っていました。
また、ヴィーガンは脱動物搾取の運動ですが、ヴィーガンの暮らしと先住民の暮らしの相容れなさも感じるわけです。ヴィーガン食では肉の代替として大豆が使われることが多いですよね。現代における大豆の生産地は、歴史的に見れば入植者が先住民から奪った土地である場合もあります。つまり、大豆生産の背景には、先住民たちが土地や、動物、植物とのつながりを奪われている状況がある。かつ、AIは環境に負荷をかけるものであり、農業や動植物にも影響を与える可能性がある。そう考えたときに、AI、環境、ヴィーガンの間にある相容れなさはどのように処理されているのでしょうか?
竹下 私の中でもまだ答えが出ていません。AI研究と動物の権利の研究は独立して始めたもので、それを続けているというのが部分的にはあります。ただ、修士2年の頃に、AI研究と動物倫理研究をつなげたいと思うようになりました。そこで、私のAI研究の一つの大きなテーマとして、AIの中の種差別バイアスの研究を始めました。OpenAIやAnthropicなどのAI企業は、ジェンダーバイアスや人種バイアスには比較的注意を払っています。まだ多くのバイアスが残っていますが、露骨な差別的発言をさせないように制限をかけたり、バイアスを取り除くような技術的な取り組みをしています。このように、人間に対する良くない偏見を取り除こうという努力はされている。
ところが、動物に対する種差別バイアスを取り除く取り組みはほとんど行われていません。私の研究の一つは、そうしたAIの種差別バイアスを分析し、定量化して評価する。そして、できればそれを減らすことを目指しています。そういう意味では、私自身もAIを批判的に研究していると思います。
フェミニスト認識論などの分野において、「インサイダー・アウトサイダー」という言葉があります。文字通りに、内部にいる外部の人という意味です。内側に入って一緒に仕事はしているけれど、外部の者として扱われることがあり、内側の常識と外側の見方の両方を知ることになる。私はそういう立場でAI研究をしているつもりです。AI研究の内部にいるけれど、持っている視点は、動物倫理学や活動家という外部の視点です。私自身、理系的な教育の中で育ってきたものの、他のいろんな文系の人たちとのつながりの中で自分の知識体系を築いているので、理系的な内部の観点と同時に人文的かつ活動家としての外部の視点も持っているという意味で、AI分野においてインサイダー・アウトサイダーの視点を持っていると思っています。
たとえば、学会の懇親会などは食事の場なので、ヴィーガンであることは隠しようがないのですが、それによって、AIの種差別バイアスの話を聞いてもらう前に、感情的だとか、活動家だからバイアスがある、と見られることがあります。AI研究で当たり前とされていることと、動物倫理で当たり前とされていることがずれているから、内部にいると見えない前提が見えてくる。インサイダー・アウトサイダーの議論では、こうした視点が分野に新しい視点をもたらすと言われていて、その概念を知った時にすごくしっくりくるなと感じたので、その方向性で頑張っていこうと思いました。
大石 文化人類学では、中立で客観的な立場というのはありえず、誰が何を研究しているのかは重要なことです。文化人類学者はフィールドワークで人びとが行っていることに参与するので、フィールドの現実それ自体が調査者である「私」がいるから生起するものであり、その現実は「私」の身体の位置からしか見ることができません。それゆえに、分析も記述も、身体を持ち、立場性を伴う「私」からは切り離すことができないんです。竹下さんの研究もそうした一面があり、竹下さんだからこその立場性や発想が研究に独自性や意義を生み出しているといえるのではないでしょうか。
竹下 哲学では、重要なのは語られている内容であって、誰が語っているかではない、と言われることがあります。でも、意外なことに、哲学の方が科学よりも誰が言ったかを重視する面があります。たとえば、カントとかヘーゲルみたいな著名な哲学者の名前にはかなりの重みがあるように感じます。「カントがこう言っている」ということが重視されている感じがあって、意外と誰が言っているのかを気にしている。哲学研究をしていて意外だったのは、このギャップです。でも、私が哲学に惹かれたところは、建前として語られる当事者性のなさ、つまり誰が語るかに左右されないことのほうです。語っている内容が重要で、当事者が言っているのか当事者じゃない人が言っているのかによって内容の評価は変わらないとされているところこそが、哲学の魅力だと思っています。とはいえ、当事者であることで説得力が増すということもよくわかっていますが……。
── そのように思い悩んでいらっしゃるところがいいんじゃないでしょうか。先ほど大石さんがおっしゃったように、無理にどちらかに決めず、ずっと迷ったまま留まっていられる状態というのは、ある意味すごくいいのかもしれないですね。それはまた、考え続けていく原動力にもなるのではないでしょうか。
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.52掲載
発行日:2026年10月20日
