先端技術
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私のまなざし
 
  
                  著者 ◉ 若林魁人(大阪大学社会技術共創研究センター)
- [プログラム]
- 2023年度特定課題「先端技術と共創する新たな人間社会」
- [助成題目]
- ソーシャルメディア空間がもたらす“かかわりの全体性”の希薄化に関する研究
- [代表者]
- 若林魁人(大阪大学社会技術共創研究センター)
ひまわり畑の写真の外側について

8月の半ば頃。私がよく散歩する植物園で、おそらく中高生くらいの何人かがひまわり畑のフォトスポット付近でスマートフォンを立て、ダンスの動画を撮っている様子を見かけました。観光地や娯楽施設、ときには道端で、そういった場面に出会うことにも慣れてきた今日この頃。そんなとき、きっとソーシャルメディアに投稿する動画を撮っているのだろうと想像するのではないでしょうか。
しかし研究活動の中で何人かの高校生が私にお話してくれて驚いたことは、確かに流行りのダンスを踊る動画を友達と一緒にTikTok(短い動画を作成・投稿するソーシャルメディア)で撮ることはあるけれど、動画を投稿することはない……という彼ら彼女らの実体験でした。もちろん植物園で見かけた人々がどうだったのかは分からないですが、私がお話を聞いたことのある限りでは、彼ら彼女らは動画を加工したり音楽を挿入したりするためにTikTokを使い、撮った動画は記念写真のように自分と友達だけで見るそうです。
“大人”世代がメディアなどを通して目にすることができる高校生は、ソーシャルメディアを活用して自分の姿を発信したり、ときに問題を起こしてしまったりする姿かもしれません。しかし大抵の高校生、少なくとも私が研究の中で出会った限りは、彼ら彼女らは(信用できる友人などとの)安全な閉じた関係性の外とはむしろつながりたくない、つながるべきではないと考えていました。Instagram(写真や動画の投稿を中心にユーザー同士が交流するソーシャルメディア)はLINEを教えるほどは親しくない相手とメッセージでやり取りするときに使う。もし何かを投稿するとしても、限られた友人にしか見られないようにする。あまり親しくない知り合いとは、会話に生まれる間や表情のような情報を削ぎ落とせるからテキストでのコミュニケーションがむしろよいこともある。などなど。
もはや「デジタルネイティブ世代は“大人”世代に比べると、オンライン上で積極的に交友を広げたり自分の顔などをオンラインに公開したりすることに抵抗がない」といったイメージは古いものとなり、むしろ現在の高校生たちには「自分を開示すること、まして自分の制御できない形で異質な他者に触れる/触れられることはリスクの方が大きい」という前提が“大人”世代以上に共有されているように感じています。
そして、ときにそれはメディアリテラシー教育の賜物などでもなく、“大人”世代がインターネット上で論争を繰り広げたり、予期しない形で誰かの文脈が切り取られて炎上させられたり、といった様子を見ることを通して、現代社会に合わせてアップデートした“合理性”のようでした。もちろん、彼ら彼女らが異質な他者との出会いに価値を感じていないというわけではなく。ただ、オンライン・オフラインを問わず、異質な他者と出会うことはコストやリスクの方が大きな時代になってしまったのかもしれません。
 
                    
                  私はトヨタ財団より支援いただき「ソーシャルメディア空間がもたらす“かかわりの全体性”の希薄化に関する研究」という題目で研究を行っています。ソーシャルメディア上では意見の対立による分断や情報の偏向などの問題も巻き起こっている……ということは長らく論じられていますが、ソーシャルメディアの「つながりたいものとだけつながれる」といった特性や、投稿などの形で社会的な背景や文脈が細切れになったり変質した状態で他者や情報に触れる経験は、意見の対立といった現象よりもさらに潜在的で無意識なコミュニケーション様式や価値観にも影響を与えているのではないか。そのような関心から、さまざまな人のオンライン・オフラインでの他者とのかかわりに関する個人的な人生や生活実感を伺いながら調査をしています。
現代社会が直面する多くの課題は複雑で答えのないもので、分かりやすく要素分解したり、限られた視点だけで眺めたりすることはできないものばかりです。そして「社会は複雑で他者は多様なのだ」なんてことは、言われるまでもなく多くの人が知ってはいるのではないでしょうか。私自身も、それを知っていても“分かったつもり”になってしまっているときがきっとあると思います。
だからこそ、その複雑さや多様さに体験として触れ続けることが重要なのではないか……ということも含めて、多くの人は知っているはずで、それにもかかわらず現代では多様で異質な存在に触れるリスクの方を大きく見積もらざるを得ないとすれば、それは何・誰の責任なのでしょう。                

社会の分断や個別化といった問題意識も、もはや真新しいものではなくなってきました。近頃は他責思考という言葉をソーシャルメディア上でよく見かける気がします。ときにそれは、社会への問いかけを「要は『あの人は得をしていてズルい』『自分を変える努力はしたくない』ってことだよね?」と個人の損得として分かりやすく分解するために用いられているように思います。
一方で、そのようなソーシャルメディアにいるのはもはや“大人”世代ばかりなのでしょう。その上でこれからの未来をつくる世代の子どもたちも、意識的、あるいは無意識に、そのような既存の価値体系に合わせた“合理性”を持たざるを得ない場面もあるのかもしれません。もしそうであるとすれば私たちの責任のひとつは、彼ら彼女らが、社会の課題やそこにある他者の苦しみを“他人の自己責任”のせいにしないくらいの想像力や、自分とゆるやかにつながる世界に目を向ける楽しみを持ち続けることが“損”にならない社会を少しずつ目指すことではないかと考えています。
8月の植物園はひまわりが見所と宣伝されていたこともあり、ひまわり畑が特別に混雑していました。とはいえ多くの人はひまわりだけを見て帰るでもなく、園全体が普段より賑わっていました。現代は流れてくる情報も考えなければならない課題も多すぎて、全てに触れることは叶わない。それでも、ひまわりを見に行ったついでに植物園を歩き、スイレンやサルスベリや自分の頭の外側の植物にも目を向けられるくらいの豊かさは当たり前に持ちうることに希望がある気がしています。
それはそれとして、私個人の損得勘定の感情としては散歩道の植物園は空いている方が嬉しいです。
 
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No. 49掲載
発行日:2025年10月21日
