先端技術
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私のまなざし
著者 ◉ 小林正法( 山形大学人文社会科学部)
- [プログラム]
- 2022年度 特定課題「先端技術と共創する新たな人間社会」
- [助成題目]
- テクノロジーの利用が認知機能に与える利益・不利益の解明

- [代表者]
- 小林正法( 山形大学人文社会科学部)
「忘れる」ことの利点
日々の生活を送る中で、「あ!忘れていた!」と声を上げる瞬間は、多くの人が経験することでしょう。忘却に起因するミスを経験した後には、完璧な記憶能力があればいいのにと、ないものねだりをしてしまいます。漫画やアニメには、過去の出来事を映像のように覚え、瞬時に思い出せるキャラクターが登場しますが、現実にも、過去の出来事の多くを驚くほど詳しく思い出せる人たちが存在しています。その人たちは、HSAM(Highly Superior Autobiographical Memory)、日本語では「非常に優れた自伝的記憶(者)」と呼ばれています。
HSAMの人々は、過去に経験した出来事を非常に鮮明かつ詳細に覚えており、「20年前の今日に起きた出来事は?」と聞かれたとしても、当時の出来事を詳しく思い出して答えられるそうです。苦労なく自分の経験を覚えられることは、いろいろなことを忘れてしまう私たちからすると、理想的な能力に見えるかもしれません。
しかし、すべての出来事を覚えていることは、必ずしも幸福を意味しません。楽しい出来事だけでなく、つらい出来事も長く鮮明に残りうるからです。嫌な出来事がふと頭に浮かぶだけで、その日一日、ネガティブな気分が続いてしまうかもしれません。
このような視点に立つと、デメリットしかないと思われていた「忘却」にも、メリットがあることに気づきます。たとえば、引っ越し前の住所をよく覚えているせいで、新しい住所が思い出しにくくなることがあります。このような場合、不要な記憶を忘れることが、今必要な記憶を思い出す助けになります。

忘却の利点は、三つあると考えられています(Nørby, 2015)。一つ目は嫌な記憶を忘れること、二つ目は冗長な情報を忘れ、主要な点だけを覚えること、三つ目は状況に不適切な行動を忘れ、その状況に適した行動を選びやすくすることです。このように、「忘却」は私たちが持つ能力の一つだと捉えることができます。
ここまでお読みいただいた方は、心のエラーにしか思えない忘却にも、プラスの面があることをご理解いただけたかと思います。しかし、「何かを忘れようとして、本当に忘れられるのだろうか?」と疑問を持つ方もいるでしょう。この疑問については、これまで多くの研究が行われています。代表的な研究の1つが指示忘却(Basden et al., 1993)です。
典型的な指示忘却の実験(図1)では、参加者に単語などを見てもらい、その後、「覚えてください」または「忘れてください」と指示します。その後、覚えた単語を思い出してもらうと、「忘れてください」と指示された単語の方が「覚えてください」と指示された単語よりも思い出しにくくなります。指示忘却の研究は、私たちが特定の情報をある程度、意図的に忘れられることを示しています。

他にも、検索誘導性忘却(Anderson et al., 1994)という現象も知られています。検索誘導性忘却は、ある情報を思い出すことで、関連する別の情報が思い出しにくくなる現象です。たとえば、「リンゴ」「ミカン」「トンボ」を覚えた後に、「リンゴ」だけを繰り返し思い出してもらいます(図2)。
その後、すべての覚えた単語を思い出してもらうと、「リンゴ」と関連しているものの、途中で思い出さなかった「ミカン」は、「リンゴ」や無関係な「トンボ」よりも思い出しにくくなります。指示忘却が意図的な忘却であるのに対して、検索誘導性忘却は、何かを思い出した結果として生じる非意図的な忘却だとみなされています。どちらも、必要な情報を取り出しやすくするために、不要な情報が忘れられるこころの働きを示しています。
さらに、ネガティブな単語などのネガティブな記憶に対しても、こうした忘却現象が確認されています(e.g., Kobayashi & Tanno, 2015)。ここで紹介した2つの現象以外にも、他にもいくつかの方法で不要な記憶や嫌な記憶を思い出しにくくすることができると考えられています(図3)。

近年は、必要な情報を自分で覚えるのではなく、スマートフォンやパソコンに保存しておくことが一般的になっています。実は、このような情報の外部保存も、忘却につながることがあります。たとえば、Sparrow et al.(2011)の実験では、参加者に「ダチョウの眼は脳より大きい」などのトリビアをコンピュータに入力してもらいました。その際、情報が保存されると伝えられた場合と、消去されると伝えられた場合を比較したところ、保存されると伝えられた場合の方が、トリビアの内容を思い出しにくくなりました。
つまり、後で利用できると考えると、その情報自体を覚えにくくなるのです。テクノロジーは、社会だけでなく、人のこころの働きも変えうるという点が非常に興味深いと思います。
本稿では、忘却とテクノロジーの関係について紹介してきました。ここまでは、テクノロジーが人間に与える影響を主に取りあげましたが、反対に、人間の記憶についての理解がテクノロジーの設計に活かされることもあります。たとえば、人間の忘却に似た仕組みを取り込むことで、機械学習の効率化を目指したExpire-Spanが知られています(Sukhbaatar et al., 2021)。
人間のこころの働きとテクノロジーの関係は、多様な研究領域が扱うべき重要なテーマであり、今後の研究がより一層期待されます。
- 引用文献
- Anderson, M. C., Bjork, R. A., & Bjork, E. L. (1994). Remembering Can Cause Forgetting: Retrieval Dynamics in Long-Term Memory. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 20, 1063–1087.
- Basden, B. H., Basden, D. R., & Gargano, G. J. (1993). Directed forgetting in implicit and explicit memory tests: A comparison of methods. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 19, 603–616.
- Kobayashi, M., & Tanno, Y. (2015). Remembering episodic memories is not necessary for forgetting of negative words: Semantic retrieval can cause forgetting of negative words. Psychonomic Bulletin & Review, 22, 766–771.
- Nørby, S. (2015). Why Forget? On the Adaptive Value of Memory Loss. Perspectives on Psychological Science: A Journal of the Association for Psychological Science, 10, 551–578.
- Sparrow, B., Liu, J., & Wegner, D. M. (2011). Google effects on memory: cognitive consequences of having information at our fingertips. Science , 333, 776–778.
- Sukhbaatar, S., Ju, D., Poff, S., Roller, S., Szlam, A., Weston, J., & Fan, A. (2021). Not all memories are created equal: Learning to forget by expiring. Proceedings of the 38th International Conference on Machine Learning, PMLR, 139, 9902-9912.
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No. 52掲載
発行日:2026年10月20日
