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Tokyo 2020の無形のレガシーとしての「自他共栄の科学」〜運動、武道、そして、eスポーツへ〜

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先端技術
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寄稿
柔道の総本山・講道館での研究合宿型授業(筆者は前列右から3人目)
柔道の総本山・講道館での研究合宿型授業(筆者は前列右から3人目)

著者◉ 松井 崇
筑波大学体育系 助教
全日本柔道連盟 科学研究部 基礎研究部門長
日本オリンピック委員会強化スタッフ(情報戦略・医科学)
スペイン国立カハール研究所 客員助教
筑波大学スポーツイノベーション開発研究センター スポーツIT部門長

[助成プログラム]
2020年度 特定課題「先端技術と共創する新たな人間社会」
[助成題目]
eスポーツ科学の推進――スポーツ科学とICTの融合で生み出す次世代スポーツの社会実装に向けて
[代表者]
松井崇(筑波大学体育系スポーツイノベーション開発研究センター 助教)

Tokyo 2020の無形のレガシーとしての「自他共栄の科学」
〜運動、武道、そして、eスポーツへ〜

稽古照今(けいこしょうこん)。古事記の一節であり「稽古」の語源であるこの語が示すように、時代の最先端のように見える科学も、実は先人の知恵に追いつくように発達することが往々にしてあります。近年加速度的に発展しているスポーツ脳科学(Sport Neuroscience)も例外ではありません。

2021年夏、コロナ禍ではありましたが、スポーツと平和の祭典・オリンピックが東京で開かれました(Tokyo 2020)。東京では2度目の開催でした。一度目(Tokyo 1964)は、日本の戦後復興の象徴として新幹線などに代表される多くの有形のレガシーを形成したとされます。成熟社会として迎えたTokyo 2020には、スポーツを老若男女の自己実現や健康長寿に資する真のスポーツ文化として根付かせるような、無形のレガシーの醸成が期待されています。そのヒントとなりうるのが、新たに“Together”が加えられたオリンピックモットー“Faster, Higher, Stronger, ─Together(より速く、より高く、より強く─ともに)”であると言えそうです。

筑波大学構内の嘉納治五郎像
筑波大学構内の嘉納治五郎像

アジア人として初めて国際オリンピック委員となり、日本のオリンピック初参加(Stockholm 1912)やTokyo 1940の招致(後に返上)を実現するなど、日本のオリンピック史に大きな足跡を残した嘉納治五郎は、日本古来の武道である柔道の創始者としてもまた有名です。

嘉納は幼少時代に身体が弱く癇癪持ちでしたが、青年期に柔術を修行すると身体が強くなると同時に心にも落ち着きや忍耐力が備わることを実感し、いくつかの柔術流派を基盤にして「人間教育の道」としての柔道を1882年に創始しました。その道標として、柔道のみならず体育全体に提唱されたモットーは、「精力善用 自他共栄」です。柔道は競技面が注目されがちですが、本来は、相手と組み合い、攻撃防禦の訓練を通じて自己研鑽(精力善用)し、互いに高め合いながら世の役に立つこと(自他共栄)を目指す道であるという意味です。最新のオリンピックモットーとの類似性が興味深いです。

ニューロンの発見者であるスペインの神経解剖学者ラモニ・カハールが、イタリアの病理学者カミロ・ゴルジとともにノーベル生理学医学賞を受賞したのは1906年ですから、実にその24年前、身体運動が脳に恩恵をもたらしうる体と心の関係が存在することを、嘉納は柔道の創始により示唆していたと言えます。しかも、他者とともに発展することを目指す“Together”の要素も含めた形で。これが日本におけるスポーツ脳科学の萌芽であったと位置づけることができるかもしれません。

筆者による運動神経科学の動物実験の一コマ
筆者による運動神経科学の動物実験の一コマ

時は下って1997年、米国ソーク研究所のフレッド・ゲージたちは、運動できる豊かな環境が記憶学習中枢である海馬の神経新生と肥大を促進することを動物実験により報告しました。スポーツの4要素(身体性、競争性、組織性、遊戯性)から身体性を取り出してその効果を探る、運動神経科学(exercise neuroscience)の始まりです。その後、ヒトでも習慣的な運動が海馬を肥大させ、記憶能に恩恵をもたらすこと、更に、前頭前野の司る実行機能を高めることも報告されました。これらは認知症の運動療法の可能性を示唆します。

また、有酸素能力と認知機能(体力と学力)が子どもでも相関することが報告され、学校体育の重要性が見直される契機となっています。他方、アスリートのハイパフォーマンスにおける脳の貢献も暴かれ始めています。これらの体と心の関係とそれに及ぼす運動効果の背景には、インスリン様成長因子、脳由来神経栄養因子、性ホルモン、乳酸などが関与する多様な分子神経機構があると指摘されており、生物学的意義や興味をも包含されます。これらの運動神経科学は、個人の能力向上にフォーカスした「精力善用の科学」と言えるでしょう。

さらに最近、知能指数などで数値化できる認知機能と対をなす、共感性などの社会認知ややり抜く力、ストレス対処力といった非認知能力が社会的成功や健康長寿の予測因子となることで注目を浴びています。共感性や非認知能力の形成には、母子のスキンシップ等により視床下部で合成され下垂体から分泌されるペプチドホルモン・オキシトシンが重要な役割を担うとされます。

面白いことに、柔道の母体となった柔術(特に寝技中心の流派)が若齢成人や高リスクな子どもの唾液中オキシトシン濃度を高めることが最近報告されました。柔道などのコンタクトスポーツは、嘉納治五郎が意図したように非認知能力の向上に役立つかもしれません。実際、非行少年が柔道やラグビー等でその攻撃性を抑制し、更生するエピソードは多くありますし、いくつかのエビデンスも示されています。このように、スポーツの身体性に加えて、競争性、組織性、遊戯性に焦点を当てた試みは、「自他共栄の科学」としてスポーツ脳科学の新たな標的や社会的意義の醸成に重要になりそうです。

次世代eスポーツの開発とその効果に関する共同研究風景
次世代eスポーツの開発とその効果に関する共同研究風景

昨今のコロナ禍において、オンラインの便利さを味わいながらも、何か物足りない。オフラインでしかできないことがある。伝わらないものがある。誰もがそう感じているのではないかと思います。果たしてそれは何なのか? この問いは、大学とは何か? という難問に昇華し、全ての大学人にも降りかかっています。なかでも、生身の人間同士の競争を楽しむことを軸とするスポーツを題材に、教育研究を進める体育人は、この問いに答えるべき宿命にあるのではないかと考えずにはいられません。

一方、国際的競技スポーツとして認知されつつある「eスポーツ(ビデオゲームの対戦)」は、座位行動として不健康なイメージがありますが、体力水準の壁を超えてオンラインでプレーし、孤独解決にも寄与しうる「インクルーシブスポーツ」としても注目されています。私は上手い訳ではありませんが、幼少期から仲間と『ストリートファイター』をプレーして友情を育みました。

「もしかして、サイバー空間での組み合いでも自他共栄できるのか?」“若造”体育科学者として、この「オンラインスポーツ」にも大いに期待を寄せています。

公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.39掲載(加筆web版)
発行日:2022年4月20日

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